孤独の山びこ 石神夏希(劇作家)

※このコラムは冊子「山山アートセンターをつくる2019 Yama Yama Art Center in Progress」のために2020年3月に書き下ろされたものです。(冊子PDF版はこちら
【作品写真(上):笠間弥路『遠くの山』/(下):笠間弥路『岩山』】

 
もはやユーモアに転換しなければ周囲とコミュニケーションがとれない、という哀しみ
 
山山アートセンターの存在は設立直後から知ってはいたが、興味を惹かれたきっかけは「ひょうたん」だった。主宰のイシワタマリさんから、自分の住んでいるところでは「アート」といってもなかなか伝わらない、だからひょうたん畑をやるんだと聞いた時は、すごく面白いと思った。その理由を説明してもらっても、なかなか「わかった!」とは言えなかったけれど、どこか直感的に「この人は大真面目だし、これは本質的なことだ」と感じた。わからなかったからこそ、まだ見ぬ山山アートセンターに足を運んでみなければならない、と強く思った。
 
それから何度か、山山アートセンターのある福知山の三岳地区を訪れた。いわゆるアーティスト・イン・レジデンス(AIR)は、これまで国内外で何度か経験してきた。たいていが民家で、空き家もあれば、家主のいる家に居候することもあった。長期で滞在する場合には、家主の日常生活と重なり合う部分も出てくる。私はその土地に住んでいる人たちと、彼らの営みを素材として演劇をつくるので、日々の営みを共にすることが「稽古」の一部でもあった。一緒に食卓を囲んだり、子どもを保育園に迎えに行ったり、運動会など地域行事に参加したり。生業の浮き沈みや家庭の事情、病気や死に接することもある。だが山山アートセンターほど、子育ての奮闘や日々の家事といった「そこにある暮らし」の重力にどっぷりと飲み込まれたAIRはなかった。それは現状、山山アートセンター≒イシワタマリだからだと思う。はたと気がつくと「あれ? 私アーティストとして何も仕事してないんじゃ…」と呆然とすることもあった(そんなに長い滞在じゃなかったけど)。
 
でも、それが彼女のリアリティなのかもしれない。実際には不器用のかたまりみたいなマリさんは、よく知らない人の目にはたぶん器用に面白おかしくやれているように見えるから、苦労も多いのではないかと思う。山山アートセンターの「このあたり」という定義も「とにかく生きよう」というスローガンも、あるいはトークシリーズに冠せられた「噛み合わない」というキャッチフレーズも、血みどろなほど切実なのだ。けれど、受け取る人がどんな場所でどんなふうに生きているかによって、意味合いが随分変わってしまう。「ひょうたん」もしかり。世界があまりに不条理だから、悲しいほど真剣に、必死に発せられた言葉ほどナンセンスに聞こえてしまうという構造と、本人も現実社会に生きている以上もはやユーモアに転換しなければ周囲とコミュニケーションがとれない、という哀しみが根底にある。気がする。
 
探すことが探されること、救うことは救われること
 
以上は私の勝手な解釈だ。その上でさらに勝手ながら、今後の山山アートセンターについて、いくつか提案をしてみたいと思う。
 
第一に、この先「イシワタマリが中心に居ることは居るが、本人が知らないところで、集まってきた人たちが勝手に出会ったり、何か一緒に始める」みたいな状態になると、面白く自走していく気がする。「開きかた」は「手放しかた」なのだ。そのために人間ひとりの手に負えない(目の届かない)広がりを持った時間と空間は有効だ。そんなわけで、やはり「アートセンター」を物理的に立ち上げる空間として、ひょうたん畑に期待したい。新型コロナウイルスの影響で主催ツアーが延期になり、空いた時間で宿望だった畑の開墾にも着手したようだ。マリさんの言う「このあたり」全体で、そうした空間が棚田のように山中に点在する情景は、アートセンターのありようとして美しいと思う。
 
第二に、私はイシワタマリの言語感覚、特にネーミングセンスを愛している。先述の通り「ボケ」的というか「言いっ放し感」が魅力的で、ただ、それを拾って打ち返す人が足りていない気がする。今後はそれらを誰かに拾ってもらって(渡して)、誤解・曲解と共にずれていくことを許容しながら表現していってもらうのはどうか。山山アートセンターはイシワタマリの作品(アートプロジェクト)なのか、そうではないのか。もしも作品ならばアーティストとして、どこからどこまでを作品(あるいは作家性)と捉えるか、という枠組みを問い直す挑戦も含むだろう。これもまた「手放しかた」の話かもしれない。
 
第三に、これは提案というより自分の興味関心だが、改めて「山」と向き合ってみるのはどうか。山山アートセンターは、これまでもインドなど「よその山」と連携したりもしている。日本の国土は約7割を森林が占め、そのうちの結構な面積が大なり小なり「山」だ。私たち一人ひとりのちっぽけな暮らしは、長い目で見れば見るほど地形と深く関わっている。民俗学者たちの研究からも、日本の文化がいかに山と豊かな関係と築いてきたかがわかる。地政学や、地球科学から考えてみるのも面白い。それに山には、海とは違う官能性がある。三岳から見える山に向かって『山のあなた』を朗読してみたい。などなど一度、名前とベタに向き合って「山」からアートセンターの意味を掘り下げてみるのも悪くないと思う。
 
「孤独にしない、ならない」という言葉が、ここ数ヶ月のマリさんとのオンラインミーティングで幾度となく出た。探すことが探されることで、救うことは救われることなのだ。イシワタマリは、返ってくるかこないかもわからない山びこを待てる人ではないと思う。たとえ迷惑がられても別の誰かの孤独を見つけにどこまでも山踏み越えて行く、そんな山山アートセンターにこれからも期待したい。
 

 

石神夏希

劇作家。近年は関東を拠点に小倉、高松、舞鶴など国内各地や海外に滞在して活動。そこに暮らす人々の営みを観察し対話を重ね、日常の空間を舞台にした演劇やアートプロジェクトを手がける。鬱病及び統合失調症による幻聴・妄想と共に暮らす父をはじめ、精神疾患を持つ家族と向き合ってきた経験を持つ。
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    展覧会『逡巡のための風景』(2019年/京都芸術センター)から始まった、イシワタマリの覚え書きあれこれ。
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